ベラルーシはロシアとポーランドに挟まれた小国で、面積は日本の約半分です。公用語は現在のところベラルーシ語とロシア語です。ベラルーシ語はロシア語から見て一番近いところに位置している外国語です。共通点も多いのですが、それならロシア人はベラルーシ語を全て理解できるのかというと、それは無理なようです。ちなみにベラルーシ語から見て一番近い言語はウクライナ語です。 もともと現在ベラルーシと呼ばれている領域に、小国家が誕生したのは9世紀のこと。しかし、10世紀末にはキエフ・ルーシ(今のウクライナ)の支配下に入りました。その後1230年代にリトワニア大公国の領土下に置かれ、やがてポーランド王国(1569年)、ロシア帝国(1795年)に支配されました。やがてロシアがソ連になると、現在のベラルーシの国境線がほぼ決定し、「白ロシア社会主義共和国」が誕生しました。(1919年) さて、このように簡単にベラルーシの歴史を紹介すると「多民族から支配ばかり受けている。」「ベラルーシ人は民族としてのアイデンティティーはないのではないか。」とよく思われるのですが、そうとは言い切れないようです。 特にリトワニア大公国の領土下に置かれていたときは、ベラルーシ人がリトワニア人に迫害を受けていたわけではなく、逆に当時進んでいたベラルーシの文化がリトワニア大公国に積極的に取り入れられました。例えば文章語としてはリトワニア語よりベラルーシ語のほうが発達していたために、リトワニア大公国の公用語はベラルーシ語が採用されました。またリトワニア大公国の政治に登用されたベラルーシ人は多くおり、リトワニア大公国が定めた憲法もベラルーシ人が考案、ベラルーシ語で書かれました。 また当時はフランツィスク・スカリナなど、ベラルーシ人の学者も多く出て、ヨーロッパで活躍していました。 現在のベラルーシの領域にはリトワニア大公から遣わされた貴族ラジビル一族が支配を続け、ヨーロッパとロシアの東西の街道と、バルト海と黒海を結ぶ河川が交差する場所として、商人が集まり大変栄えていました。
残念なことにポーランド王国やロシア帝国の支配下に入ってからは、ベラルーシ語の使用が禁止されるなど、迫害を受ける苦難の歴史が始まりました。 ソ連時代も第二次世界大戦時には、ベラルーシ人の4人に1人が犠牲になり、またチェルノブイリ原発事故が発生したときには、風向きがベラルーシに向いていたため、深刻な被害を受けました。事故発生から17年になる現在でもその影響が終わることなく続いています。 仕方がないことなのですが、日本の一般的なマスコミがベラルーシのことを取り上げるときは、チェルノブイリ関連のニュースやロシアとの統合の動きなどにテーマが限られています。独立後のベラルーシの経済状況は悪化しており、負の遺産を抱え込むことになるロシアはベラルーシとの統合に二の足を踏んでおり、現在のところ目立った進展はありません。
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ベラルーシの部屋 T (感想等はこちらへ) 2003.03.02 |
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